箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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明治三十年から三十五年にかけて、毎年のように赤痢、が多発している。箕輪村では三十一年四二名は最高で、この年には恐らく中箕輪、東箕輪両村にも発生したものと思われる。大正二年の両村の赤痢と腸チフス合わせて四五名を第二のピークにして、以後昭和十三年の三名まで、中箕輪では赤痢の発生をみない。昭和二十年に赤O痢が多発したのは、戦争が原因であろう。その他、明治、大正に比べ、ジフテリアは昭和に多いのが目立っている。明治三十年九月十二日には諏訪郡平野村に赤痢が大流行をして、各製糸家では男・女工を多数解雇したために、上・下伊那郡下より働きにいっていた者が多数帰村のため、当町の街道を通行して帰宅していった。その折の保菌通行者によるのか、または部落に帰った保菌者が伝染源になったものか、九月十八日には、松島四人沢六人計十人九月二十二日には、松島二人沢五人計七人その後にも散発的に発生して、その数は最終的には四八人となった。郡下においても伊那・河南村にも多数発生し、この予防対策については、各村では消毒的大清潔法を施行して発生を防止すると共に村民に対しては、赤痢予防心得の衆知徹底を計り、各区長は衛生組合長と区内を巡視して万全の策を講じたのである。口は禍の円であると言うことから次の通り予防方法を示して、簡単であるからとその実行を強く村民に呼びかけている。4321飲料水は必ず煮沸したものを用いること。食物は平生食し慣れていても必ず熟煮したものを食すること。食器を洗う水は一旦煮沸して用い朝釜に一杯わかしておいて一日用いる。宵越しになるように、熟煮したものは残さないこと。蝿がとまらないよう注意すること。


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