箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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園児は、一二分の一ぐらいは、子守付きで通園した。日課は、弁当持参で九時から午後三時ごろまでで、絵話、紙芝居、人形劇、自作のフランネルグラフなどを使った授業や遊戯で楽しいものだった。遠足には、福与城へ行った。当時の子どもは勇ましくて、けんかはする、本堂で木魚はたたくで、手こずったものであった。小林園長夫妻、保母、みな若い情熱をかたむけて幼児の教育に打ち込んだが、園長の病気と経済的なゆきづまりが主な原因で、この上伊那唯一の慈恵幼稚園も、二年間で開園した。保育所当町では、他町村に倒をみるような、戦前に方面委員などが中心となった事業としての季節的な託児所は開設されなかった。戦後、昭和二十二年七月、引揚者や戦争未亡人などの救済を目的とした授産所が木下に設置され、そこで働く母親たちの幼児を保育する目的で、初めて保育所、が開設された。つねにこの方面に理解と経験のある、嶺頭院の小林恵鏡を所長とし、同寺の一部を開放して保育所としたものである。昭和二十三年三月、常設保育所として正式に知事の認可があり、同年九月六日、一八七名の園児を迎えて中箕輪保育所として初めての入国式が行なわれた。町の保育園の歴史は、ここに始まったのである。しかし、独立保育園としては、松島の若葉保育所の方が先で、まだ木下が嶺頭院に併設されていた昭和二十五年六月五日、現位置に明音寺の上野住職を園長として発足した。その後町の各所に設置され、昭和四十八年十月現在では、双葉(木下〉、若葉(松島〉、いずみ(沢)、青葉(上古田〉、長岡(長岡)、おどち(小河内)、みのわ(一二日町〉の七保育所と、五十年四月から松島東保育所が新設開所された。社会福祉生活保護保護の種類は、生活扶助、医療扶助、出産扶助、生業扶助、葬祭扶助、教育扶助等で、保護世帯数紘一すは、次表の通りである。身体障害者福祉法は、昭和二十二年に制定され、障害者の自力厚生を援助し、社会的経済的活動に参与できる四


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