箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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「忠霊殿」「忠魂碑」にその名を刻んで、英魂社、靖国神社に合組し、故人の戦歴を「忠魂録」に記録し、又、魂を後世に残すことにしたのである。昭和十九年以前は戦死した日及び場所を公表しない指示があったが、その後は「太平洋上において」というような戦死場所となり、昭和二十年になれば、生死すら不明の混乱状態におちいっていくのである。このような状況下に、銃後を守る町内の一老婆の歌の中にも、出征した我が子を憶う母の気持がうかがわれる。。神かけて待たるる月日待ちぼうけ又木枯の音をきくかなあこ。嫁始わびしく暮す三とせ越し吾子は帰らず又春や来し。いねて夢さめては思ういとし子の無事の帰りをただ祈るかな。国守るために征きしは誉ぞと思いながらも淋しかりけり。吾子の身を守り給えと朝夕に母は祈りぬ地蔵菩薩に長岡十沢の「お地蔵様」にお参りして、ひたすら吾が子の無事を祈るこの老婆の姿が坊仰としてくる。これはこの老婆に限らず、いわゆる「銃後」にある者のすべての願いであった。昭和二十年八月十五日惨陣隔たる状況のもとに、戦争は終った。陸、海軍は、圏内はもとより、圏外遠く大陸に離島に兵をおき終戦の現実に直面した。昭和二十二年の戦死公報によれば、地図にもない場所で「玉砕」戦死の文字がある。島ではレイテ島、サイパン島、テニアン島、ミンダナオ島、ニュLギニヤ島、沖縄本島、パラソン島、スマトラ島等の諸島に、海ではダパオ海、バリタン海峡、バシ1海峡等、大陸ではウラウンデ、ブカチヤチャ、コカンIト等、地名ではマンリ、ラングLLン、パンパン、マニダル、タンガロワイ、アサム、シンタン、ラスワン、イブレ、グラクピ、ナポ戸、ハバンガン、ダエト、カレヮ、モノハン、マリキナ、イポ等がある。ソ満国境にいた者は「抑留」「捕虜」があり、シベリヤでの労働があった。Y第4章事戦陣と奉公袋


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