箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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「一、本臨時列車以外ノ普通列車ニ依リ応召セγトスルモ、輸送人員ノ関係上乗車シ得ザルヤモ計リ難シニ付必ズ臨時列車長究野駅までは個人で行き長野よりこれに乗車するのである。此の時の長野駅より金沢到着の時間は、臨時列車であっても長時間を要している。現在長野・金沢聞の急行は三時間半である。石炭の煙を上げるに乗ってE。。。かむりきトンネルをくぐって、長野へ出たのである。海軍にも「兵員枯渇」が現れてきた。横須賀海兵団へ昭和十九年だけでも一一回の召集が中箕輪村にあった。これももちろん海とは経験の少ない中箕輪村の第二補充第二国民兵が三名応召した。指示は列車を示し、集合場所を図示し、朝食持参で旅館ゃ、公園に集合を命ぜられている。昭和十九年十二月十二日調査の「昭和十六年一月以降未応召者在郷軍人名簿」は、中箕輪村はコニ九名」となっており、支那事変以来の未応召者は「九名」となっている。これは兵役経験の予備役のみが「九名」であるが如何に兵員が全国で枯渇していたかがうかがえる。前年の同様調査は「一九名」で、本年は二名増加に見えるが、満期除隊もあるが、戦傷者、戦病者が増加したことと、兵役年令の延長で人員の増加した結果である。兵員はこのような状況を続けて「敗戦」とも、「終戦」ともいう昭和二十年を迎えるのである。「出征」ののぼりを立て、日の丸の小旗と国防婦人会のたすき姿など、大勢の人の見送ることも徐々に影をひOそめ、やがては応召する人さえ列車に乗車することも困難となった。抗し得ない時の情勢の流れの中で、生きている限りは、それもまた一見華やかであったが、数多い応召者の中には、戦死、病死、負傷のために、病気になる者も少なくなかった。太平洋戦争の戦没者OO箕輪町四九七名中箕輪村一一一一一一名東箕輪村一名箕輪村八五名これにさかのぼって支那事変、満洲事変を加えると、五名を越す、戦没者数となり、村葬をおこない、招OOOSL


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