箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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兵事第四章第一節徴兵令と国民皆兵王政復古によって兵権も奉還されたが、兵は依然として藩兵であった。明治元年陸軍編成法を発布明治三年十一月徴兵規則を定めた。国軍の編成は、四年には薩、長、土の三藩の兵約一万を徴して御親兵(後の近衛兵〉を置いた。ついで小倉に西海道、石巻に東山道の二鎮台(後の師団司令部)をおき附近の藩兵を徴した。廃藩で藩兵を解隊し、翌五年十一月に徴兵令を発し、ここから国民皆兵制となった。海軍は、明治初年に幕府よりの接収と、諸藩より献納の艦船で編成され、兵部省設置の際は東、富士山、千代田の三艦と運送船四隻であった。その後明治十二年には二六隻、一万五千トンを持つようになった。士官養成には、明治二年東京築地に海軍操練所を設け、翌年には兵学寮と改め更に七年には兵学校と改称した。これは後に江田島に移り海軍兵学校となり八十年間に及ぶのである。明治六年の徴兵規則により箕輪町は名古屋鎮台の所管となった。鎮台(本営〉の下部組織に分営があり、それが営所でありそれに入隊するのが入営であった。O男子二才になれば好むと好まざるとに関わらず、すべて兵籍に編入される国民皆兵制は大変革であった。筑摩県は各町村に「国民成丁簿」「免役連名簿」「徴兵連名簿」を提出させた。これに関して東箕輪には、次のような資料がある。


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