箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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第十八条団長ノ命ニ依ル職務上ノ出張-一対ジテハ旅費手当附目等支給スル事アルベシ第十九条本内規ハ昭和十四年四月-日ヨリ之ヲ施行スとあり、大正十五年に統一した中箕輪村消防組が内規として組纏、組旗及組高張等を儀礼の場合第一部より順次二、三、四部と持廻りにする(大正十五年六月決議)とか、組頭代理二名の選出方法(昭和三年四月二十七日決議〉とか、同代理の任期について(昭和四年五月七日決議)とか、前記組纏、組旗及組高張の係は各部に於て一年宛とする(昭和四年五月七日決議〉等の簡単なものに比べて条章を設けた立派なもので時代の趨勢がうかがわれる。しかしその内容についてみると組織については定員、役員殆どおなじで、防空班長等が新しく自に着くだけで余り変つてはいない。しかし形の上では明治以来消防組の象徴として使用されてきた纏を器具の員数の中には入っているが実際は使用しなくなったことである。殊に消防組活躍のシンボルとして使用の認許を受けた金条をつけた俗に金馬簾と称する儀礼用の纏もこれ以後は使用することがなくなった。警防団となって消防組と違う点は、年中行事の中へ防空訓練が加えられたことである。しかしこの訓練は一般家庭の防空態勢をも指導するものであり、警防団員による防空指導はその事以外に村民を戦時態勢への協力という方向へ大きく且急速に推進する働をもする結果となった。四月五日には結成式を行い、同月二十四日には伊那警察署管内一町十ケ村警防団幹部訓練実施、七月二十一日には団本部団旗及分団旗ノ入魂式並分団旗授与式を行い、来賓としては在郷軍人分会長が出席するようになり、いよいよ戦時色を濃くしていった。消防組当時演習又巡検と称していたものを検閲式と呼ぶようになり、昭和十七年の出初式以後は宣戦布告の詔書も読むようになった。そして此の年十二月一日に行われた秋期検閲の模様を沿革誌からとり上げてみると次の様な内容のものとなっている。H一、昭和十七年十二月一日秋期検閲施行当日正午国民学校々庭集合忠霊塔建設地桑株抜根作業ヲ行ヒ約一反歩ヲ一時間余-一テ終了、其ノ間ニ機関係ハ榔筒操法ノ訓練実施シタリ、午後二時ヨリ検閲実施四時終了シタリ検閲官警部細査復司、随員土屋巡査、


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