箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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尚、大正十五年の県会議員名簿縦覧開始の際の登録人は、四七人であるが、このときの選挙で、投票しなかOった者は、一一一人であり、その内訳は、従来より名簿にない者四八人、新な選挙人で投票しない者六三人であった。衆議員選挙は、小選挙区制制限選挙であり、直接国税一五円以上が有資格者であった。上伊那の一名の議員は、祖父を中村元恒(箕輪町大出へ居住〉とする中村弥六が、連続当選となっている。中村弥六は、第一回は政府与党であったが、第二議会で民党となり、樺山蛮勇演説の攻撃でしられ、このため長野県下の衆議院議員の選挙では、中村弥六の選出地盤、上伊那が、独自の動きを示したこととなっている。中村の属した旧進歩党(憲政本党)は、県下で孤立し、明治三十一年三十二年、上伊那の自治機関は完全に停止するという一大紛争をよぶJことになる。箕輪町の分村問題や、町財政問題の背景には、このような趨勢があったわけである。箕輪町の選挙について、残念ながら資料が乏しく、いかんであるが、箕輪村でみれば、明治四十年に、五八人・明治四十一年に、六四人となっている。その内訳は、OOO五円以上百円未満五円一1一一円O円J一五円Oニ人三二人一二となっている。同じ、箕輪村で、大正三年十月一日現在、衆議院議員選挙有権者の見込数として、失権者二人、有権者二人増計四八人。向上明年度に於て失権すべき見込数失権者四人計四四人としている。選挙投票は、明治三十五年の改正まで、姓名住所を記載捺印した投票紙が、明治三十五年より無記名となった。大正八年一月、原内閣の普選運動にそって、村内の中等教育しらべゃ、直接国税、二円・三円・四円以上のしらベが、行われる。「議第四号報告ノ一


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