箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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このようなさ中、明治三十一年四月、村会議員半数改選に際して、築堤工事費を村税へ繰込ませ、一般公民五八人を送り、議場を占拠することになり、ここにいたり、上箕輪分村問題が起り「我が沢・大出・八乙女・下古田ノ四区ハ一帯ノ地勢同一ニシテ人情風俗及日常ノ家計大差ナキヨリ今ヤ生計専ナリト云フベシ故ニ本区長ノ指揮スル処滞リナク行ワレ村税税収納ノ如キ速ニ納期-一応シテ総括ヲ見ル一両日ヲ出デズ救ヲ以テ三ヶ年村債ノ如キモ直納アルナシ是ニ反シ松島・木ノ下外各区ニ於テハ各自自由ニ直納シ或ハ他人ニ托シ年内陸続トシテ収納ノ期ナキモノノ如シ因襲ノ久シキ即チ又怪ムニ足ラス、是ハ呉ト越トハ什伍シ難キ因ニシテ懸隔ノ反スルトコロナリ。陰に陽ニ自己ノ便益ノミ謀リ他ヲ排撃シテ顧ミザルコト斯クノ如キ凶徒ト日ヲ同フシテ共立スルニ忍ビンヤ」という、呉越同舟なりがたき、深刻な事態を迎えるが、中箕輪村会議事録(明治三十二年〉では、一月三十日、十八人の村議が、北原地球治の事故欠の中で、諏訪郡上諏訪町矢島祥造の当選(十一富市)を決している。矢島祥造は、五月二十九日に辞職を申したて、中箕輪村長財務管掌上伊那郡書記柿沢雄二郎の下、前年度の赤字補充のため村債借入金案の提出となった。明治三十二年一月という年は、上伊那郡の町村政治にとっては、大変な年にあたる。長野県議会が、旧進歩党系、中村弥六代議土の地盤である上伊那を敵視した時であった。内務省認可の上伊那の土木工事の大半が、県会タオνで否決され、この年一月八日、伊那市坂下常国寺で「舞而後止」と大書したムシロ旗を翻した三百余名が、内務大臣原案施行を決議し、上伊那郡会も、園山知事弾該を決議している。そして、各市町村共、県税戸数割を議定せずといきまき、ついに三月十四日、次の申合せとなった。申合一、町村長助役は、明十五日を以て総辞職を為す事但、辞職理由は、議会の暴状、知事不信任の明文を記入すること。一、職務管掌町村長出張する迄は、収入役以下は在職すること。書


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