箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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会計を大きく動かしていることがわかる。明治二十六年に、村税滞納のため督促した人数は一四二人であるが、村長〈荻原伴七〉は、村予算編成に際して次のような意見書を提出している。「ト意見書OO会計検査ハ一二回ノ多キニ及ヒ最モ細密ニ調査ヲ遂クルニ収入明治二十六年度本村歳入出決算ハ本年六月ヲ以テ報告会議支出トモ其当ヲ得タルト雄モ独リ収入ノ部ユ少シク不納者ア開設スヘキノ処物価騰貴ノサナヵ、予算ニ配ナク、加ウル-一リテ己-一財産差押ヲナシ未タ結末ヲ告ケサルモノ数名アり、不納者ノ多キニヨリ其期ヲ失ヒタルニ至ル、然レドモサキニ其他柳不都合ノ廉無之皆ナ至当ト認メ候条本案ヲ発スル所以制ノ明文ヲ以テ執行スルトキハ期限ヲ経過スルモノニ・無之其ナリ職トシテ尽ササル可カラサルモノナリト雄モ如何セン事業ノ明治二十七年九月二十八日箕輪村長荻原伴七」多端ニヨリ如此荏再シタモノトス又例月会計検査ハ勿論臨時尚、明治二十六年に、督促した人数は、一四二人である。明治二十七年では滞納者の占める比率がさらに増加し、村の収入金額の半分を占める滞納金は、明治二十八年において三九二円六九銭六厘二ニ八人の督促者を出している。明治二十九年の村会計を見ると次の通りであり、天竜川大橋を公費金で賄っている。明治二十九年村税督促をうけた者は、次頁の通りである。その規模に驚く。予算も倍となったが滞納者も倍となっているわけである。戸数コ二五戸(明治二十九年〉の一村であるから、全村督促をうけるような状況であった。明治三十一年以後の滞納表は次頁の通りである。明治三十三年七月にして、漸く、明治三十一年度の決算書を作製した箕輪村では、この年十月、明治三十二年度の決算書を早く提出せよ:::と郡役所より督励をうけているが、多額の延納金のため整理が遅れていると報告している。明治三十四年の春蚕の収入の期を逸せず、二年前(明治三十二年〉の未納金をとれ:::とする郡役所の督励をうけて、七月十八日に次の通り決算書の提出となる。このように、町村制施行の運営が村税滞納というような基本的問題でゆきずまった打開策として、借金公債政策がとられるわけであるが、明治二十八年一時公借金として、五円の借入れのため苦心している。次で、明治三十三年五月、地租制限外課税を、内務大臣・大


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