箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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ルモノ蓋シ合併ノ事情ニ適合セザル所ナラン依テ自然上ヨリ地勢ノ便宜ヲ得テ独立ノ資力ヲ有スル当区ヲシテ法律八十九条、地方学事通則第二条ニヨリ独立木下学校ヲ設立セシムルノ御指定変更アランコトヲ奉請願候也明治二十五年十一月七日上伊那郡中箕輪村木下区人民総代柴浜之助以下(四十一名)この請願も、上伊那郡役所より明治二十五年十二月一日付で却下返戻されて終っている。かくして、木下町村では、分村体制をしいている。このことを「明治二十六年十月分村事務日記帳」からしるしてみる。「明治二十六年十月十六日、木下区民一統が選出セシ学事委員会一一於テ中箕輪村ヲ分離シ木下町村ヲ設立スルノ評決-一拠リ、分村委員ヲ選挙スルタメ投票紙ヲ調成ス、出勤入学事委員、木下彦四郎以下ハ十二人略〉」十月十九日投票の上、当選人を選出している。分村事務日記帳は、「十一月二十三日、本村尋常小学校校舎位置指定変更ノ儀、郡長田辺氏懇諭切ナルニ依リ分村事件御調至急ヲ要シ北部地方へ出頭ス、笠原正太郎、本日塩尻宿泊ス、十一月二四日麻績宿泊ス、麻績村役場員滝沢義三郎氏ヲ宿泊所一一招キカ石村ニ出向スルノ順序及同村分離事件-一付運動要路一一当リタル人名郷名加判願取扱人久野専之丞氏ノ居所等ヲ尋ネタリ:::」と、分村事件で係争し、法廷裁判となっている力石村の村長や分村総代に逢って帰っている。このように、村をあげての分村は、中箕輪村の非常事態を生み、官選村長、北原地球治の辞表を招くことになる。中箕輪村でも、筑摩県制下の分村要求は、説諭によりもみ消されてしまったが、三新法下の木下村分村要求は富田耕地の印鑑をもらうことから、スタートしている。分離再願長野県信濃国上伊那中箕輪村ノ内木下町義ニ本村分離請願仕候所、独リ富田耕地連署致サルニ付、官ヨリ精々示談連署之上、更一一上願致スヘク御口達ニ付直ニ帰村岡地人民へ解診之旨趣郡役所へ請願且当戸長役場ヨリ再三説明ユ及ブモ敢テ分離ヲ故障スルニ非ラ


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