箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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野方面の生徒を範囲とすることになり、本校舎設立の位置は、旧来の学区制部落から一郡一学区制という新なLアリ如斯正規ニ抵触シタル所為アリシヲ以テ一級選挙ヲ取消サレタシト云フ-一アルモ前後ハ専ラ選挙場取締-一関スルモノナレハ若ジ当時不都合ノ挙動ト認ムル時ハ之ヲ制止スル時事後ニ於テ之ヲ推究スヘキモノニアラス後段ハ訴願書申立ノ如ク用紙一定ナラザル処即チ役場ノ割切印ナキモノ一枚アリタル割切印ノ有無ハ選挙ノ効力ヲ断定スベキ価値アルモノニア-フ、ス右ノ理由ナルヲ本村会ハ訴願ノ旨趣不相立モノト裁決ス訴願人二級選挙人福沢彦六右ノ訴願ノ旨趣ハ明治二十五年一月十八日長岡区会議員二級選挙ノサイ選挙人中投票ニ白書スル能ハサルモノ選挙組問ニ窓ラスシテ他人-一代書セシメタルモノアリ又投票紙ヲ会場外へ持出シタルモノアリ如此正規ニ抵触シタル所為プルヲ以テ二級選挙ヲ取消タシト云フユアリ然レドモ此等ハ会場取締ニ関スルモノナレパ若シ当時不都合ノ挙動卜認ムルトキハ之ヲ制止スル事後-一於テ推究スヘキモノエアラス、右ノ理由ナルヲ以テ木村会ハ訴願ノ旨趣不相立モノト裁決ス長岡区会議員選挙取消訴願裁決書案町村制と分村問題の展開学校設立は、維新政府の革命的な政策として、明治五年発足し、筑摩県令、氷山盛輝の異常な教育政策により、すすめられ、旧藩各村々を単位とした学校が、各部落にスタートしている。各部落の学校設立経過や、沿革については教育制度の項にゆずるが、明治十九年四月改正小学校令により上伊那郡第四番学区中箕輪学校を開校するや、本校舎建築をめぐって、松島と木下とが、争うことになる。そして木下の分村問題は、学校設立をめぐり、再び火を噴くことになる。特に、明治二十一年四月、上伊那高等小学校分教場の設立をみ、中箕輪分教場は、辰教育改革の下で、統廃合問題をはらみつつ、新築の位置に争点が集中してくる。明治二十二年十二月、木下耕地人民総代より、上伊那郡役所に請願がだされている。「中箕輪村会中止ノ請願今般中箕輪学校配置之件一一付、郡長閣下ヨリ当村会-一諮問按ヲ発セラレ当村会ニ於テ既-一、一回ノ会議ヲ開キ、委員ヲ選挙シ此レガ起草ヲナス事ヲ決セラル抑本村学校ノ位置タル裳-一県令ヲ以テ再三再四指定アリ当時村


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