箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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難モ之レヲ挙グルニ戸長役場ノ往復甲ノ近キワ一時間以内ニ制度ノ域ユ棲息スルヲ得ズ之レヲ達シ乙ハ半日或ハ一日ヲ費ス事アリ之ヲ予算スレバ前記数項ノ理由ニヨり本村ヲ分離シ新生ノ維持方法三金リ(地租納六度地方税納二度村費納二度〉都合十度ニシ乙ハ平一小村ニシテ資力薄弱ナルモ部民共力ヲ尽シ又ハ山林原野建均六日半ヲ費シ甲ハ十時間乃至一日ニ達ス之レヲ此較スレパ物金穀等ハ従来ノ区域ニ拠リ別ニ共有維持/方法相設ケ右ハ五日半ヲ要セリ其他之ニ準ズ甲部落中ニハ地租ヨリ徴過スル部民一般ノ希望-一候問事実御洞察ノ上一村ヲ設立相成行様御多額ノ耕地費ヲ消耗シ是レ其ノ運輸不便ニシテ地質ノ時憎悪収許可ニ被下度別紙調書相添此段奉願候也利薄弱ナレパ甲ト共カ同心シテ事業ヲナスベキヲ得ズ故ユ新第一項は、戸長役場に遠いこと、第二項は、明治二十年の下水溝問題、第三項は、村費等級割が、西箕輪村と八七銭九厘七毛の差がある。第四項は土地の問題、第五項は人情の問題について、資力薄弱ながら一村を成立したい:::と、申したてている。ここで旧箕輪地域内のか〈通事情を古老などにきくのに、現在とは比較にならぬ想像を絶したものであり、長岡から松島の学校へ通うのに、困難で、木下へ下宿して通学した(「私は下宿して小学校へ行った」山口進〉という状況であり、一日がかりの戸長役場の用たしも、誇張でないことがわかり、分村要求も住民自治からすれば肯けよう。尚、このような分村請願は、沢・大出・木ノ下などで明治二十年前後あいついで出され、民費の帳簿を閲覧しようとすれば、戸長役場では隠してみせず、人をして和を講じてきたことが、明治二十年の十二月の段階にみられ、明治二十一年には松本裁判所へ出訴して、漸く新戸長を決め、人情風俗近き者の団結分村請願を行うとした矢先、新制度実施となり空しく涙をのんだ(明治三十二年北箕輪「大出・下古田・八乙女・沢」請願書)ことが報ぜられている。町村制下の村生活の様相町村制下の村生活は、明治恐慌史の嵐の中での生活であった。とくに米価は明治二十二年秋より急騰し、明治


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