箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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「:::議長又日ク課賦方ノ至当ヲ議スベシ。三三番山口九造日グ地価七分戸数三分ヲ可トス八番伊藤久左OOエ門日ク地価七分戸数三分ノ課賦至当ト心得タレハ、三一一一番へ同意ナリコ一二番三井豊司日グ地価戸数ノミニOテハ至当ナラス幾分カ反別ヲ加へテ可ナラン二番河手庄三郎日グ地価五分戸数三分反別二分ヲ可トスOO議長動議起ラサルニヨリ一一一一一一番同意ノ者ヲ試ミルニ起立十八名多数ニ付地価七分戸数三分ニ決ス抜一一於テ議O長衆員ニ向ヒ不才ノ身ヲ以テ議長ノ任ヲ痔クス爾来苦心措グ能ハス然ルヲ各員ノ議則ヲ守り注意深グ加シヨリ本日ヲ以テ決議ヲ結ヘリ感謝口陳スルニ難シ:::」という状況であった。新法制下の分村問題|三日町村・福与村の誕生|明治十一年七月コニ新法」による地方制度の改卒がわが国の地方行政に画期的な意味をもっ。とくに、いままでの大区長と違い、強い統制力をもっ郡長の出現と民選戸長など町村行政が漸く、地について歩むことになる。三新法制下の再分村問題は、全国的に大きな問題となるが、ことに上伊那では、どの村でも大きくゆれている。Y再分村問題のトプをきったのは、朝日村と東箕輪村であった。東箕輪の筑摩県制下の分村については、地元で史料が発見されたので既述したが、三新法制下の分村問題については、県の公文編史料があり、小口珍彦氏により紹介(伊那路二T十一)されているので、以下、それによる。これによると明治十年前の文明開化時と違い、訴願文は洗練されており、挙村体制で分村願ができ上っており、郡役所でも止むなく県へ送り内務省を経てついに、明治十四年八月十日分村をかちとった。しかも、三日町・福与が独立村となるという異常な村(自然村〉の誕生となった。明治十八年の沢岡他四ケ村の聯合村までの四年間、三日町・福与は独立村としてすごしたのである。それにしても、明治八年人民惣代として、出訴に踏みきった、平出治郎兵衛・小沢都弥の名前はないが、上回門三郎は戸長となり、田中弥重六などの顔触れが並び、彼らは、粘りに粘り見事、初志を貫徹したわけである。とくに、筑摩県の説諭に抗弁して、彼ら自身の町村制をかちとったことになる。


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