箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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六戸、二一九五人、明治四十五年で六一七戸、二八九人と、だんだんとその差はひろがっている。さらに、昭O和三十年には、戸数で一五O二戸人口で七五七人と差を大きくし箕輪町にあっての商工業の振興、公共施設等Oの集中化と、周辺と中心部とのちがいを示している。旧箕輪地区の明治三十一年より昭和四十年にいたる約七十年間に戸数において七四戸増、人口において二九人増、旧東箕輪地区の明治三十一年より昭和四十年にいたる聞の戸数増一七二戸、人口増六人である。このことから特に東箕輪地区にあっての、人口増の少ないのに気がつく。これに比較して中箕輪地区の七十年間の変化は戸数にあって一六八四戸と実に二・五倍近い増加を示し人数においても、五回三六人とほぼ二倍になっている。先にのベた箕輪町にあっての戸口の集中化現象の一端をここに見ることができる。人口の増加率箕輪町における明治三十一年と昭和四十五年との人口増加率は(明治三十一年一一、一一二五人昭和四十一年一六、七四四人〉一・四八倍である。811.021.021.中箕輸箕輪東箕輪182.891.辰野CI日伊那富村〉南箕輪これを明治三十一年対昭和四十年で比較すると上のようで箕輪及び東箕輪地区にあっては殆ど変化がない。中箕輪地区では二倍近い数字を示しているが、旧伊那町や旧伊那富村に比較すると、増加率は低い。また南箕輪とくらべてもLや低い。こうしたことから旧中箕輪地区にあっての人口増加が著しく、これは商工業の発達に伴う影響と考えられる。この傾向は松島駅東地区の住宅新築、木下への新しい住宅団地の新設等によって一層拍車をかけられている。一方長岡新聞に見られる戸数の激減(昭和初年五四戸、昭和五十年三六戸)は、町中心部への人口の集中化が、窺われる。町村名|増加率2.90伊那CI日伊那町〉


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