戦国時代のみのわ

戦国時代のみのわ - 箕輪町図書館蔵書のデジタルアーカイブ


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Ⅰ武田氏の信濃侵攻と箕輪1.武田氏の侵攻と藤沢頼親〔箕輪の藤沢氏〕室町時代後半~戦国時代における箕輪地方の領主(りょうしゅ)は、福与城(ふくよじょう)を拠点とした藤沢氏でした。藤沢氏の出自(しゅつじ)については、諏訪神(みわ)氏の傍流(ぼうりゅう)で、藤沢谷(伊那市高遠町)の地頭(じとう)となって次第に勢力を伸ばして、上伊那北部一帯を治めるに至ったとする説や、相模(さがみ)国藤沢の住人である藤沢行親が、建武(けんむ)の功によって足利尊氏(あしかがたかうじ)より箕輪六郷を賜(たまわ)ったとする説などがありますが、明らかではありません。しかし、諏訪神社の祭祀(さいし)の役人を記した『諏訪御符礼之古書(すわみふれいのこしょ)』には、長禄(ちょうろく)元年(1457)に箕輪に藤沢遠江守という人物がいたことが記されていることから、遅くとも15世紀中頃には、箕輪の地に藤沢氏がいたものと思われます。その後、武田氏が信濃に侵攻(しんこう)してきた16世紀中頃の藤沢家の当主は、藤沢頼親(ふじさわよりちか)という人物でした。藤沢氏の系図(『藤沢一族』より抜粋)〔武田氏の侵攻と箕輪〕天文11年(1542)7月、前年6月に父信虎(のぶとら)を追放して武田家の家督(かとく)を継いでいた武田信玄(たけだしんげん)は、信濃侵攻の第一歩として、高遠頼継(たかとおよりつぐ)と共謀(きょうぼう)して上原城(うえはらじょう)の諏訪頼重(すわよりしげ)を攻撃しました。頼重はこの戦いに敗れ、甲府に連行され自刃(じじん)しました。その結果、諏訪惣領家(そうりょうけ)は滅亡し、諏訪郡は、宮川を境にして東を武田氏が、西を高遠氏が支配することとなりました。諏訪郡の半分しか得られなかったことに不満をもった高遠頼継は、箕輪の藤沢頼親(ふじさわよりちか)や春近衆(はるちかしゅう)と共に、同年9月に上原城(うえはらじょう)の武田軍を攻撃しました。しかし、諏訪頼重の遺児(いじ)を擁(よう)した武田軍に宮川橋(みやがわばし)の戦いで敗れ、その結果、諏訪郡はほぼ武田氏のものとなりました。この時、藤沢頼親も武田氏に降伏し、出仕(しゅっし)するようになりました。しかし、こうした小領主は、その後も機を見て反旗(はんき)を翻(ひるがえ)すことが度々ありました。上原城跡宮川橋付近


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