箕輪町誌(歴史編)

箕輪町誌のデジタルブック 歴史編


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第..3編近世第二節箕輪の和歌の流れ『伊那歌道史』によると、依田梅山は天和元年三六八一)江戸詰高遠藩士依田清大夫正伸の嫡男として生まれ、たいちゅう幼名は竹松、後に源之進または大沖といった。壮年のころ、建部丹波守に仕え、寺社用人として十人扶持を給せられたが、建部の死去を機に浪人の身の上となり、たまたま飯田藩士高沢丹下がその甥である縁故をたよって飯田に来て、元文・寛保のころ飯田知久町に仮寓して、近隣の志あるものに国学・和歌を教授した。また、高遠や飯島などへ招かれ、ようやくこの地にも和歌がゆきわたる機運になった。その門下に大出の井沢正恰がいた。このころ、依田梅山などのように諸国を巡歴して語学技芸を教え、ひいては、農村への文化普及をうながした人々おいの中に法印歌人鳳鳥がおり、「箕輪といえる里へあやしき法印の笈かけてさすらへ来れるあり、いずこよりいかなる人にやと尋ねけるに都方のものなり。西国三十三ヶ所の観世音を拝みめぐり、なほ当国善光寺へ志し来れりと。名は鳳鳥ときこゆけれどまことはあかさず。井沢なにがしの家にとどまりて、家の娘に琴など教へ(後略)」と飯田の福住世貞によって書き残されているので、箕輪町では、和歌はこのころからはじまったと思われる。こうして、伊那谷が和歌興隆の気運に向かいつつあった時、それに一筋の光明を与え、その師範家となり、伝授者となったのが、平安の僧澄月の高弟である飯島の桃沢夢宅で、近世上伊那の生んだ歌人として、その最たる人であり、箕輪の和歌も夢宅の大きな影響を受けている。桃沢夢宅と松島社桃沢夢宅は元文三年(一七三八)に生まれ通称与一右衛門本名は匡衛、歌人として夢宅・啓山・鳥帽山人和歌1128


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