箕輪町誌(歴史編)

箕輪町誌のデジタルブック 歴史編


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第2章南北朝時代鳩吹城説伊那市横山牛伏寺説塩尻市片丘右の諸説につきそれぞれ根拠を示してあり、福与城説については福与城は一名鎌倉城とよび、諏訪氏の分流藤沢氏の拠城でもあり、そこから諏訪氏の本拠地上諏訪までは、一の沢川を湖ぼって真志野峠を越せば五里という近距離にあることなどをあげている。時行はその後正平七年(二二五二)、新田義輿らとともに武蔵の尊氏軍と戦ってこれを破り、一時鎌倉に入ったが再び尊氏に敗れ、同年五月鎌倉の竜ロで殺された。推定年齢は三十歳前後であったという。南朝方では諸皇子を荘園のある国々に派遣し、その地の武士の力をかりて勢力の回復につとめ、信濃へは興国四年(一三四三)宗良親王が入って伊那郡大河原に住し、南朝方の中心になって経略にあたった。当時における南信諸族の南朝方と足利方の色分けは、およそ左のようであったという。南朝方(公家方〉北朝方(武家方)伊那知久氏・藤沢氏(藤沢)・香坂氏(大河原)・黒河伊那小笠原氏・片桐氏・飯島氏・赤須氏・大島氏・羽内氏場氏(辰野)諏訪諏訪氏(上社の方)諏訪諏訪氏(下社は武家方らしい)松本小笠原氏当時箕輪の地にも諸小族がいて、彼等もまたこの南・北動乱の渦中にあっていずれかに属し、各地に転戦したであろうが、諸軍記・諸記録の中には、残念ながらその消息は全く語られていない。403


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