箕輪町誌(歴史編)

箕輪町誌のデジタルブック 歴史編


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第2編中世民一党と戦った。この戦の史料は守矢文書の「守矢貞実手記」のみで、次のように記してある。(附裳)守矢貞実手記勢、時口難勝負付、難然次良殿、次無御方、手負死人時ヒ「貞実手記」(庚〉失成ケレハ、十月廿三日夜、大徳王寺域開落、大祝神職ト暦応三年献相模次良殿、六月廿四日、信濃国伊那郡被楯箆メ交手負死人ニ事非例也、雄然父祖賢慮不二也、故疑念(辰)(当)(嗣、下同ジ)者、彼神道可拝見申、以此旨大祝頼継三七日勤行、致葬送大徳王寺城、口大祝頼継父祖忠節難忘而、同心馳籍、当国(諏訪)由、種秘印結ニハ、十三所致参詣、木門川いい]給口モ神事如守護小笠原貞宗、府中御家人相共、同廿六日馳向、七月一形斗也、如此印口仕神口大祝殿、授神長、日於大手、数度為合戦、相模次良同心大祝頼継十二才、数十ケ度打勝、敵方彼城西尾構要害、為関東注進、重被向多(『伊那史料叢書』)諏訪上社の大祝諏訪頼継は、当年わずか十二歳であったが、北条民に対する父祖の忠節を忘れがたく、時行に味方して馳せ参じ、数十度の合戦に奮闘した。しかし力尽きて十月二十三日大徳王寺城は落城し、諏訪頼継は諏訪に逃れ、時行もいずれかへ逃れ去ったという。この大徳王寺城の戦の史実については、諸家のなかにも疑問視するものが少なくなく、南小河内の郷土史家小口珍彦は『貞実手記』に関する考証を発表している(『伊那』第三三八号)。それによれば『貞実手記』の書かれた年代と貞実の年齢とを比較考証すれば、大徳王寺城の記事はずっと後代何かの記録や文書を頼りに、あるいは父祖からの伝聞をもとに書いたものと考えられ、また小笠原関係の史料などに全く証拠のないことから、『貞実手記』は一級史料ではないとしている。しかし、確証は欠くとしても、前記のような当時の事情から時行の挙兵がなかったとは断言できない。大徳王寺城の所在地に関する諸説として、『信濃勤王史孜』に次の諸城地を挙げている。藤沢説高速町藤沢北原徳光寺説駒ヶ根市中沢高見福与城説箕輪町福与四徳説中川村四徳高速城説高遠町高速恩徳寺説伊那市西春近下小出402


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