箕輪町誌(歴史編)

箕輪町誌のデジタルブック 歴史編


>> 401

第2章南北朝時代「横河については、天竜川の支流に経ケ岳に発する横川川により適しているし、またこの近くには諏訪氏の分流で、があり(現辰野町)、この横川川の谷がいわゆる横河で、元亨三年(一三二一二)に十一面観音を造した宮所孫次郎光横川城は辰野町大城山とする安筑史料叢書の説は、横川と信の本拠があり、横河城の戦は、この地に上伊那地方の神いう地名から考えてとりがたく、むしろ辰野町大庭という氏の一族が立簡り、小笠原軍と交戦したのであろうとして推定(『信濃勤王史放ちが妥当であるとしている。横川村いる。戦に関する史料は全く存しないが、上伊那北部は北には市河氏に関係するかと思われる地名や伝承もあるが、条氏に恩顧をもっ諏訪氏の勢力圏にあったから、足利氏に四横河放の位置としては少し谷の中に入りすぎている。大庭属する新興の小笠原に対する反感は強く、横河城において地籍は横川川の作った段丘上にあって北は小野方面を指呼一戦の展開されたことは十分考えられる。」の聞に望み、南は遠く伊那谷を望むことができ、城の位置大徳王寺城の戦中先代の乱で危く鎌倉を脱出した北条時行は、しばらくその行方をくらましていたが、『大平記』には「亡親高時法師、臣たる道を弁へずして、つひに被亡を勅勘の下にえたりき」に始まる格調高い時行の勅免願いの条がある。後醍醐天皇は時行の説くところをもっともとして恩免を与え、以後時行は南朝に属して東奔西走していたようである。同じく『大平記』には「相模二郎時行も、すでに吉野殿(後醍醐〉より勅免を蒙りてん守ければ、伊豆O)国より起って五千余騎足柄・箱根に陣を取って」南朝方の諸将とともに鎌倉をうかがい、また延元三年(二ニ三八)には北畠艇黙に従い、美濃青野原において小笠原貞宗の軍と交戦している。それについては、北朝方の二番ゃうのすのまた手高大和守の三千余騎が洲俣川を渡りかけたところへ、「相模二郎時行五千余騎にて乱れ合ひ」これを撃退した働きも記されている。時行はその後も顕家に従って各地に転戦したが敗れ、最後は故地である信濃に潜伏し、宗良親王に従って伊那・諏訪方面の諏訪氏の中から再起をはかつていた。こうした戦歴を経て時行は、暦応三年(一三四六月、伊那郡の大徳王寺誠に立龍って、信濃の北朝方小笠401


<< | < | > | >>