箕輪町誌(歴史編)

箕輪町誌のデジタルブック 歴史編


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第2編中世日には鎌倉の総攻撃をうけ、諏訪父子をはじめ信濃の諾将四十余名は、鎌倉の大御堂において自害して果てた。その有様は、「諏訪三河守を始として、むねとの大名四十三人、大御堂それとも見分けざれば、相模二郎時行も、定めてこの内にの内に走り入り、同じく皆自害して、名を滅亡の跡にぞ留ぞ在るらんと、聞く人哀を催しけり。」めける。その死骸を見るに、皆面の皮を剥いで、いずれを(『大平記』第十三巻〉のようであったが、時行は逃れてこの中にはいなかったという。かくて中先代の乱は北条氏の惨敗で終息したが、これを中先代の乱と呼ぶのは、高時までを先代とし、尊氏以後を後代と呼び、時行はちょうどその中間にあるからである。時行の鎌倉在住はわずか二十日間であったので、この乱のことを別に二十日先代の乱ともいう。この乱は建武の新政を打ちこわす直接の導火線となった。すなわち足利尊氏は乱後鎌倉において新政府に反旗をひるがえし、新国義貞勢を箱根に破って西上した。信濃の守護小笠原貞宗は、これまでの関係上尊氏に味方し、村上・市河氏らを率いて、北条党の諏訪・滋野・仁科・呑坂氏らと信濃の各地に転戦することになった。やがて京都の尊氏は持明院統の光明天皇(北朝)を立て、後醍醐天皇は吉野山に朝廷を聞いて(南朝)政務を執った。こうして圏内は公家方と武家方の二つに分かれて抗争する南北朝時代へと移るわけである。横河城の戦中先代の乱は、前記のように諏訪頼重父子らの自害や時行の脱走で終わりをつげる。その年の秋、守護の小笠原貞宗に従って、信濃における北条高行の残党平定に軍功のあった高井の豪族市河助保が、伊那郡横河城において北条方の残党と戦った記録がある(『市河文書』)。その伊那郡横河城はいったいどこにあり、そこに立龍って小笠原軍と一戦交えたのは誰であったか、『上伊那誌歴史篇』に概略次のように記してある。400


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