箕輪町の文化財

箕輪町の文化財 - 箕輪町図書館蔵書のデジタルアーカイブ


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1指定文化財福与城跡(県史跡)所在地大字福与1508番地ほか(福与・三日町)所有者箕輪町、個人福与城跡は、東西約330m、南北約440mを測る平山城で、西側には天竜川の断崖、北東側と南側には支流河川の断崖があり、三方を自然の断崖に囲まれた天然の要害です。唯一台地に接している南東側には、二重・三重の空堀が築かれていたと考えられています。二の郭から主郭を望むこの城は、室町〜戦国時代にかけて箕輪郷を領していた藤沢氏の居城で、16世藤沢頼親でした。天文14年(1545)、武田晴信(信玄)は、高遠城を攻略して箕輪に到撃しました。藤沢頼親は、義兄にあたる小笠原長時らの援軍を得て武田軍と対峙し城(辰野町)にいた小笠原長時が武田軍に敗れて府中(松本市)へ撤退したため、援軍弟を人質に出して武田氏に降伏しました。その後頼親は、武田氏に対して臣従と離たが、最後は小笠原長時と共に信濃を追われ、三好長慶を頼って京都に落ち延びましそれから37年後の天正10年(1582)、織田氏により武田氏が滅亡し、本能寺の変でたれて織田氏が撤退したため、頼親は箕輪へ戻り旧領を回復しました。しかし、周辺の北条氏・徳川氏・上杉氏が信濃に侵攻する混乱の中、藤沢頼親は徳川氏に帰属した高遠の保科氏に攻撃され、歴史の表舞台から姿を消しました。平成12、13年には、城跡整備事業に伴って発掘調査が行われ、15世紀中頃〜16世紀中頃の遺物やピット(柱穴?)などの遺構が確認され、福与城跡の最終使用年代が16世紀中頃であることが判明しました。上空から見た福与城跡


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