生誕120年 探偵作家 大下宇陀児

生誕120年 探偵作家 大下宇陀児 - 箕輪町図書館蔵書のデジタルアーカイブ


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序コ~早ru読書好きの少年探偵作家大下宇陀児の登場おおしたうだる大下宇陀児(本名きのしたたつお木下龍夫)は、明治29年(18)11月15日に、主主木下甚五郎、母やすの二男として、長野県上伊那郡中箕輪村(現箕輪町〉木下に生まれました。小さい頃はおとなしい子であったといわれ、時によると一人で天竜川へ出かけて釣りを楽しむこともあったようです。読書の楽しみを母親のやすさんから教えてもらった龍夫少年は、小学校二年生頃から「八犬伝Jや「三国志jなどの本を読みふけっていたそうです。また、当時の村の小学校には読書会のようなものがあり、暇さえあれば小説に親しんでいたともいわれています。将来作家として立つべき下地は、すでに幼少期に出来ていたのかもしれません。勉強が好きで、成績も優れていた龍夫氏でしたが、小学校卒業を前にした頃の木下家は、経済的に厳しい状況にあり、上の学校へ進学できるかどうかは難しい状況でした。この時、極力龍夫氏を中学校へ入れるべきだと説いたのは、母親のやすさんであったといわれています。この説得により、聞は龍夫氏を町へ出して丁稚奉公でもさせようと考えていた父親の甚五郎氏も、苦しい家計を工面してでも、龍夫氏を中学校へ進学させることを決意しました。こうして、明治41年(198)3月に中箕輪尋常小学校を卒業した龍夫氏は、長野県立松本中学校(現松本深志高校〉へ進学しました。科学者の道ヘ中学校では、益々勉学に励むようになり、その秀才ぶりを発揮して第高等学校(現在の東京大学教養学部及び千葉大学医学部・薬学部の前身〉を志望するようになった時には、将来は技術者として立つ気持ちが固まっていたようです。両親も賛成し、本人が希望するなら、どんな苦労をしてでも大学までは行かせようと考え、昭和3年(194)に松本中学校を卒業した龍夫氏は、念願の第一高等学校へ入学しました。そして、昭和6年(197)に第一高等学校を卒業した龍夫氏は、九州帝国大学工学部応用科学科へ進学しました。後年、自身の回顧文では、製図が苦手だったので応用科学を専攻したと語っています。区2・母木下やすE「私が小学校の生徒だ、った時、母は東京に嫁していた姉のことで上京し、土産に本を買ってきてくれた。眼に一丁字のない母だったから、本の内容は知らない。柳生旅日記、肥後の駒下駄などという講談本、また八犬伝や三国志を読み耽っていた私のため、本をお土産に買おうとした母は、本屋の番頭さんが出してくれた本を、そのまま買ったのだろうと思う。ところがそれは、表にセドリックの絵がついた若松賎子訳「小公子」だ、った。私にとっては、西洋の小説を読むのは、それがはじめでた、った。いい本を買ってきてくれたと、今も、母に感謝しているのである。」(昭和29年12月『暮しの手帖J第26号「母の思い出jより)-2-


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