箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


>> あとがき

箕輪町誌を刊行しようという気運が、町理事者を始めとする町内関係者の聞で起り、町内各地、各層より委員を挙げ、箕輪町誌編纂委員会をつくった。更にその中に専門委員として直接に関係する数名を選定した。それは昭和四十三年である。当初の編纂委員、専門委員は諸般の事情により、その後辞任があり、そして新任があった。やがて執筆段階になると、編纂委員会は編纂刊行委員会に名称を改め、五名の専門委員に執筆のすべてを委ねられた。計画は自然現代編、歴史編、資料編の三巻とする。内容は特色のある町誌とする。即ちいわゆる学術書形式でなく、読み物的要素を多く含ませたものであることをねらいとした。箕輪町内に埋もれた資料を堀り起し、箕輪町内の人びとの智慧を集めて、箕輪町の専門委員が筆をとるという、いわば泥くさいことを敢て求めようとした。そこで長期の展望として資料蒐集期、執筆期に二分してことを進めた。資料の蒐集は事務局を中心に、町責任者の指示を仰ぎ、各地区の委員の協力を要請しておこなった。或る時は各部落の公民館の書庫をあけて、ほこりにまみれて資料を分類、整理し、資料台帳、資料目録をつくった。コピーをし、ファックスにかけ、写真撮影のシャッターを幾度か切った。より正確を期し、より濃度の高いものにすることを願ったからである。また木南宮神社の宝蔵の資料などは、神社総代の協力により、多くの資料をリヤカーに積んで広い部屋に運んで、二度の調査をしたことも、そのためである。また或る時は県庁の書庫で調査した。近代的な設備でスイッチのボタγを押すと長く続いた高い書棚が次々、と移動する所で、箕輪町に関あとヵ:きする資料を探した。同じ県庁関係の書庫でも、分類によって、別の県立図書館に保管されている資料の部屋は、西日を一面に受ける密閉された部屋であり、ここへ夏休み中の盛夏に入った。部屋の暑さは忘れられない。別に町公民館の二階ステージ裏に保管してあった、ダγボLル箱入りの資料は、新築の博物館へ運ぶときは、小型トラックに二台分が集められていた。役場書庫にも資料となりそうなものも多くあった。中箕輪村、箕輪村当時の村議会議事録、教育関係は学務委員頼、兵事関係は動員下令麟等の諸綴があった。このようにトラックを使用する程の書類の量であっても記述の面になれば一行で終わるか、または全然文字にならないものが大部分になるわけである。また個人で所有する資料の調査もおこなった。古くからその家に保存されている貴重な資料を、町誌編纂に役立つものならばと進んで協力し閲覧を許し、貸与にも心よく応じた家も少くない。明治初期からを現代篇とする編纂意図があるため、古文書にのみ頼れない部分も多い。したがってこれらに関しては、聞きとり調査をおこなった。戦後三十年を過ぎた今日であるが昭和初期の記憶の確かさと不明確さ、個人により印象の強弱から考えられる記憶の異なりなどを、それぞれの聞きとりの結果から感じたが、これらは、より多くの人に聞くことによって、でき得る限り正確を期そうと試みた。箕輪町出身の故人或は町内在住の先輩の箕輪町に関する著書も重要な参考資料である。特に町誌編纂を企画する原動力になったとさえ言える故人のひたむきな調査報告書はガリ板印刷で著書とは言えないが誠に貴重な資料であった。直接、関接に資料とした参考文献もあり、町内各学校の百年誌、或は編纂計画中で学校で蒐集した資料、各校の学校要覧などがそれである。次に自然関係の資料蒐集であるが、一口に自然と一言ってもその分野は広い、現代関係に劣らない項目数を間口としている。自然部門の参考文献の数は多い。しかしこれらはどれも総論的なものであって範囲を狭く箕輪町と限定した場合には、足で現場を踏査する以外に方法はないと言っても過言でない。たとえば気象の一項を考えても天気予報の最小範囲は飯田、伊那、木曽地方をまとめて放送する。ここで箕輪町というそれよりまた狭い範囲を区切って考える時は、いわゆる微気象的な要素を追求しなければならない。生物、地質等みな然りである。また自然関係の資料蒐集には長期を要する。しかし長期間では、自然は刻々に変化しているため資料的価値の無くなってしまう場合もある。このように現代、自然とも各種の方法によって資料として蒐集が一応進み、続いて執筆段階になる。五名の専門委員の執筆分担は最初から大略定めであったので、それぞれ集めた資料のもとに執筆となるわけであるが、次に資料の取捨選択がある。前記の表現方法を考慮に入れての記述には、力不足をなげきながらも鋭意努力したつもりである。然しどこかに利用できるだろうことを考えていた資料も、文を綴った上では位置の定まらないものになって使用しなかったり、文章表現の都合で、是非必要と思われる資料は集めてなかったり、などとさまざまな陸路があった。執筆半ばで不足を補うために資料台帳に無い資料を探した。公民館や個人宅を再び尋ねたり、現場の確認を改めてすることもあった。やがて編纂刊行委員会より出版の予定期日が明示された。心中言い知れぬ焦燥を感ずることもあったが、五名の委員の分担を若干変更するなど専門委員の協力休制をとり、次に昭和五十年十二月を全原稿の提出目標とし、年末までに全原稿を完成させた。後は事務段階によって昭和五十一年一月印刷所も定められ、箕輪町誌出版に大きく一歩近づいたのである。書名は「箕輪町誌、自然、現代篇」。校正を経て製本、いよいよ町誌第一巻の誕生である。以上が町詰第一巻のおおよその経過であるが、当初より数年を経た今ここで、この間をふり返ってみるとき、町の理事者を中心にして町内多くの人びとが、この本の出版のために協力を惜しまなかったことが第一に挙げられる。専門委員としては其の責の大きいことを感じながらも各と他に職を持つ身のため、そちらに力を傾ける場合も多く、また資料不備や執筆者の知識不足など加わって、期日をおくらせたことを申訳なく思う。しかし町誌出版という得がたい機会に専門委員という使命を与えられたことに対しては、身に余る喜びと感ずる。願わくば此の本が町内外、多くの人の自にふれて、昔の箕輪町を想い、現在の箕輪町を知り、将来の箕輪町に、大きな希望を抱く手がかりとなってくれたらと思う。あわせて、記述には正確を心がけたつもりではあるが、粗漏の点も多いと考えられる。御叱正を賜わりたい。一記箕輪町誌専門委員樋口彦雄発行人印刷所小松総合印刷株式会社発行所2土I編纂人箕輪町誌第一巻現自代然編編箕言輸長県町裏那一輪喜郷R昭和五十一年九月三日O発印昭和五十一年九月二日O竺語幸博5“一占物E^ノ、6館主行刷箕輪町誌編纂刊行委員会箕輪町誌編纂刊行委員会代表者清水重幸長野県伊那市みすず


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