箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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嫌子第四節木下磯子この離し方の生まれたのは、約二百年前の安永年間であるといわれている。箕輪義雄という人がいて、現在の一の宮に南宮神社を建てたが、その後火事で焼けてしまった。現在地へお宮を移したのが、飯田城にあった小笠原秀政で、この時から神社に奉納するお曜しとして始まったのが、そもそもの誕生であったという。寛文十二年に徳川幕府の直轄となった木下は、色町も多くたいへん栄えていた。そこに木下独特の曜子をつくり、おいおい新曲もとり入れて代々伝えてきたのだが、この四十年ほど全く忘れられた存在となっていた。このままでは、二百年南宮神社とともに生き続けてきた木下曜子も途絶えてしまうところだったが、幸いこの曜子を正しく覚えていたものがいて教えてくれることになった。楽器衣装紘一すを揃え、練習を重ねてここに四十年ぶりに復活したものである。楽器は、笛、しめ太鼓、平つり太鼓、大皮鼓、小鼓、すり鐘、拍子木等で、演奏種目は数え歌、木下曜子、末広蝶子、うめ返し、返り蝶子の五つである。長岡磯子(シャンシャンレツツ)普から長岡に伝っている蝶子に長岡離子がある。昔は長岡曜子とは呼ばずに「γャシシャYレツツ」と言われ昭和年代に入って呼ばれるようになった。いつ頃から伝わって来たか由来も不明であるが、口伝えでは二百年以前でないかと一言われており、三味線・鼓-太鼓によって編成されている。曜子も「シャγシャγレツツ、シャシシャγレツツ」と人の心を浮き浮きさせる優雅な調べと踊りは、お祭りや婚礼の時に青年会の有志によって盛にはやされ、区民に親しまれてきたのである。大平洋戦争によって中断されていたが、最近になって「長岡蝶子保存会」が結成され、人達に受け継がれて永く保存されることが望まれている。復活されたので、若い


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