箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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Oり一本、西廻り五本の割合で辰野において、中央線に接続する配慮がされている。または廃業することになり、昭和十八年一月上伊那、下伊那の小運送業者と伊那電気鉄道株式会社とが、資本金六百万円の半分ずつ資本を出して、伊那通運株式会社を創立した。そして同年一月一日より営業を開始した。伊那電の国鉄移管にともなって伊那通運は、伊那電の持株を買収した。さらに、昭和二十年八月一日伊那通運は日本通運に合併して今日にいたっている。伊那松島駅よりの発送、到着荷物は次のようである。発言リ第二節一八七一、七七七バスTT昭和十一一一八二一一一一七、ハイヤー昭和一一一十五年二八、二一一一T一二、八OOT昭和四十年一五、七二五一九、九六二TT上伊那地方の乗合パスのはじめは、明治四十三年に南信自動車株式会社が下伊那郡飯田町より上伊那郡伊那町までの聞を開業したのがはじめである。(運賃一円十銭)その後大正六年伊那パスが開業して、従来の南信交通路線を運行した。その後、昭和年代となって赤穂|中沢及び南向村を中心とする個人経営によるパス運行が行われ、電車線と並行して伊那|上片桐の昭和自動車があった。しかしいずれも単独経営の期聞は短く、昭和十五L十六年で伊那自動車に統合された。Jこの間、伊那自動車線にうつる前、辰野伊那聞のパス路線開発について沢区大槻茂の計画があり、これによってパス運行がなされた。しかしこれも短期間で終わった。昭和四年九月の、伊那乗合自動車時刻表によると、概ね一時間に一本の割合で伊那|辰野聞が運行され、東廻着送貨貨物物昭一、和八年一、TT年


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