箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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ハ其処分方法ヲ議決スヘキ権利ナキモノトス況ンヤ原告ハ被告ヨリ処分法諮問ニ際シ甲三号証ノ如ク異議ノ申立アルニモ不拘被告ハ連合村会ノ意見ニ従ヒ原告村各自人民ノ所有ノ部分ニ関スル財産迄保管スルハ其当ヲ得サルモノトス右之理由ニ依リ判決スル如左被告ノ拡弁不相定条原告ノ請求-一応ス可シ訴訟入費ハ被告ノ負担タル可シテ議定スルハ当然ナリト難共一郡ノ人民ヲ代表スル連合村会判所松本支庁法廷ニ於テ言渡ス者也百I始審裁判所判事裁判所書記唐斉沢藤戒三角太郎唐沢角太郎囲右ハ内閣ノ裁可ヲ経テ明治廿二年十一月廿六日長野始審裁以上の通り開産社解散により東箕輪村では、訴訟には勝ったが、その分配については資料が発見されない。江戸時代にあっての凶作に備えての郷倉のなごりを明治時代に於て貯穀の制度として見ることができる。即ち耕作者は各耕地毎米を出して保存し之を凶作または不作(個人的〉にそなえたのである。明治四年木下村で貯穀した人々とその貯穀高を書いたものがある。これによると一五人の者が貯穀している。総計して見ると一六石七斗であるから、籾一俵が五斗ということで換算して、三三俵余りであり、精白すると二二俵余となり、一日一人当五合をあてると仮定すると、四、四人が一日しのげ、当時の木下の人口から推定OOして、恐らく二、三日は大丈夫であり、凶作等の際は草などを加えて食い延ばせば、或る期聞はもっということにならう。更に個人的な災害(火災で穀物を焼いたとか、水害で食物が流失したといったような)この備貯穀の中から貸与え、収穫期に現物と利子を返納させるといった、共済制度的なものとして利用されたのである。四R宇穀


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