箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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箕輪村長田中順一殿追仲間情者諸君へ可然御致聞奉願上侯勿々なおこの当時中箕輪地区では、機械による生糸の製造が隆盛に赴く時でありその建造物は当時学校等を除いては最大のものであり、一朝火災等の災にあう時は近隣もまたその類焼をこうむることが多かったが、大正六年二月七日木下の林組製糸場の火災の模様が沿革誌にのっているので掲げてみると木下林組製糸場火災ノ為メ出場折柄西南風強キヲ意トセズ当組ハ直チニ長田倉庫(当時南箕輪村北殿にあった長田製糸場の倉庫〉ノ屋根ニ昇リ必死ヲ極メ猛風猛火ト闘ヒ類焼セザラシメズ成シ居タルニ又々北方高雲寺ニ延焼セシヲ発見シ当組ハ直チニ該所へ馳セ付キ真正面ヨリ本堂へ放水中各消防集合セシタメ本堂ノミニテ防止メ尚ホ製糸場内ハ火災跡猛火ナル故南方ヨリ放水各組ト連絡セント成シタルニ量食ナキ為メ直チニ後援者-一依頼シ村内ヨリ焚出ヲ乞ヒ一時ノ急ヲ救ヒ益と勢力ヲ得テ一層尽力ス午後九時ヲ以テ現場引揚ヲナス焼失七戸当日ノ働キ方一一付テハ近隣ノ者当組ヲ賞セザルハナシ器具其他ニ大破損ヲ出シタルニ依リ直チニ修繕又ハ買入ヲO出場人員二九名東箕輪消防組旧東箕輪村関係についてみると、明治二十七年十一月三十日東箕輪消防組を設置す。長野県告示第一四号明O治コ一十八年四月十四日水防業務を兼掌す。一部数を三部とす長岡部南小河内部北小河内部一指定人員設置の当時は百九十名なりしも現在は二百七十名に増員さる。とあり、昭和八年当時は定員が設立当初より八十名も増加しているが後また減員となって、いつの頃からか二五成ス四


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