箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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実態に直面し、これは入会争いのため富田が連署してくれないのである:::という、分離願いであるが、明治十五年十二月、木下町村では、上伊那郡長に、事の次第を哀願している。上願書中箕輪村木下町限り復旧分離之儀袋-一書面上申仕候也処尚更-一弐通ヲ調製シ可差出御達ニ付別紙之通相認候得共右御裁可之成否ハ固ヨリ閣下ノ御賢慮ニアルノミ閣下人民ヲ愛スルノ深キ慈母ノ赤子ニ於ルカ如シ実ニ人民ノ至幸ナリ仰キ願クハ書面御展開ノ上、奥書被成下可然様其筋へ御進達被下度独リ富田耕地市己連署不致ハ原野紛争ヲ根拠トシ之ヲ拒ムニ過キズ固ヨリ其地盤ノ如キハ訴訟ノ曲直ヲ論セズ木下へ編入ハ同地人民モ又知ル所ニシテ、唯入会如何ノ一点ニ止マルモノナレバ今回ノ分離毒モ之レニ影響無之者ト信認仕候間何卒我輩志願貫徹相成侯様単ニ奉懇願者也明治十五年九月三日上伊那郡中箕輪村木下町総代北条孫四郎・木下信十郎・笠原孫十郎上伊那郡々長伊谷修股このような木下村の分離は、結果として、明治十七年一月十八日、県の票議として、その後申し出なく不要に被存:::となって終っている。明治十五年よりの分村問題は、長野県、上伊那全域に及んでいた。請願書を作ったが、郡・県へいかないうちに、すりかえられた問題として、沢村・大出がある。明治十六年、沢・大出村の分村請願書(惣代連署)は、戸長役場において、松島より沢区を相手取る共同井堰の問題とすりかえられている。明治十五年、中箕輪村会では、各区より筆生一名を撰出させ、役場の監視役として、統合を画っている。明治三十年分村の問題|上箕輪村設置について|明治三十年の分村問題としては上箕輪村の問題があるが、以下、請願書・村会決議などの資料から、当時の村の性格をうかHAうことにする。これらの資料から、町村制施行という行政村の設立が、さまん¥の曲折を経てで


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