箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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雨乞い祭、乾天の慈雨、てるてる坊主、集中豪雨、等々雨と人とのつながりは非常に深く直接的である。箕輪町の雨のグラフは前頁および下のとおりである。これによれば箕輪町には昭和四十四年、年間約一、三の雨が降っJたことになる。一、三OOMは一三、雨がそのままたまれば約四尺の深さということになる。箕輪中学校観測資料によれば、年平均降水量(昭和十二年昭和三十一年、十ヶ年〉は一、二二四回である。したがって町内平地部は年間一、二皿前後の雨が降るものと考えてよい。OO昭和三十六年六月の伊那谷の梅雨前線豪雨は上伊那南部に大きな被害Mを与えたが、南部山間地では二十六、七、八日の三日間で約五のOM記録がある。同じ日の長岡新聞の建設省工事事務所関係の記録は二三二である。一年間降る雨のほぼ半分に近い量が三日間に降り続けるとなれば、どしゃぶりとか、へそまでびしょぬれどころではない降雨状況が想像される。地面の保水能力をはるかに越えた大量の出水があり災害を招く結果OOMとなる。町内四校のグラフによれば六月は降水量が多い。これは日本全国に共通するいわゆる梅雨期、つゆ時である。一日に降る量も日数も多OOMい。暦の上には入梅があるがこれは一年を二四期にわけた旧暦(現在多く使われているのは新暦太陽暦〉であるので、梅雨と直接の関係はなベ|1雨量


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